松山の市街地を抜けて

 

石手寺を出ると遍路道は瀬戸内海を左手に、高縄半島の海岸線に沿うように札所を目指す。

次の札所へは凡そ13q、道後温泉を見て、松山城下を通り、人口51.6万人の松山の市街地を抜けて行く。

道後温泉に泊まり、松山城や「坊ちゃん列車」を楽しんだせいで、遍路道からは完全に外れてしまっている。

 

この日は松山駅に向かい、駅を出てすぐに左折、伊予鉄の軌道敷に沿って県道19号を歩く。

朝のラッシュが一段落する時間帯とは言え、さすがに中心地の交通量は多く、街は活気に溢れている。

駅前で休憩中のタクシードライバーに道を尋ねると、わざわざ自車まで戻り、取ってきてくれた観光用のパンフレットを広げ、幾つかの目印を教えてくれた。

そして、「ここからだと、かすり会館前の県道を直進して、53番に行ってから52番に向かう方が歩く距離は短い筈だ」とアドバイスをくれた。

 

松山の市街地

松山の市街地

松山の市街地

 

松山の市街地

松山の市街地

松山の市街地

 

 その最初の目印、ボーリング場の角を左折し国道437号に入り直進する。

次の目印は「伊予かすり会館」の大きな煙突で、右斜め前方に見える筈だ。

40分ほど歩くと、左前方に三島神社の森が見えてくる。

その角を右折し県道に入り進むと、すぐに大きな煙突を従えた「かすり会館」が右手に見えてきた。

 

松山の市街地

松山の市街地

松山の市街地

 

松山の市街地

松山の市街地

松山の市街地

 

そこから更に30分ほど歩くとようやく札所に向かう道標が現れる。

真っ直ぐ進めば53番・円明寺、左に向かえば52番・太山寺。「さあ、どうしたものか」とここで一思案。

 

 地元のドライバーだけに間違いはないだろうが、これまでに再三道を間違えて辛い思いをしているだけにここは無難な選択をし、左に進路を取り、順番通り52番を目指すことにする。

道はやがて住宅街を離れ、丘陵地に入り左に池を見ながらミカン畑に沿って山裾を巻くように延びていく。

歩くこと20分ほど、やがて前方に太山寺の一ノ門が見えてくる。

 

 

深山の趣、太山寺

 

 札所の順番通りに巡り、第52番札所・太山寺に到着した。

参道の先の一ノ門から山門に至る道筋には沢山の民家が建っていて、ずいぶんと構えの大きなお寺である。

昔はさぞ賑やかな門前の通りであったと思わせる雰囲気がある。

それが途切れると二十数段の石段が現れ、その上に簡素な作りの仁王門が建っている。

これは鎌倉時代の建立で重要文化財、そこに掛かる扁額は弘法大師の直筆と言う。

 

第52番札所・太山寺

第52番札所・太山寺

第52番札所・太山寺

 

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第52番札所・太山寺

第52番札所・太山寺

 

第52番札所・太山寺

第52番札所・太山寺

第52番札所・太山寺

 

仁王門を潜ると杉などの大樹の茂る急な上り坂の参道が数百メートルほど続いている。

途中右手に真新しい本坊があり、納経はここで受けることに成る。

更に進むと左には昔の遍路宿を彷彿させる建物も残されていて、ここに至る参道も中々に面白い。

 

急な坂を一気に上り詰めると右手に石段が伸び、三ノ門(仁王門)が見える。

そこを登り、門を潜れば境内が広がり、国宝の本堂が目に飛び込んでくる。

この寺の本堂は桁行7間、染間9間、奥行きの深い単層入母屋造りで、堂々とした大屋根を構えている。

簡素ながら豪壮な作りは鎌倉時代のものだ。

 

第52番札所・太山寺

第52番札所・太山寺

第52番札所・太山寺

 

第52番札所・太山寺

第52番札所・太山寺

第52番札所・太山寺

 

第52番札所・太山寺

第52番札所・太山寺

第52番札所・太山寺

 

寺の背後には標高100mほどの瀧雲山が控えていて、その中腹に建っている。

地図を見るとこの寺のある瀧雲山を越えると、すぐ下に瀬戸内海が広がり、松山観光港が立地している。

丁度高縄半島の西側の付け根に辺り、海が取り巻いているのに、寺から海は全く見ることは出来ない。

それどころか寺域一帯は、山の東斜面の中腹で、鬱蒼とした深山の趣すら感じられる。

 

 

学生さんのお接待

 

「お遍路さ〜ん、休んでいきませんか?」

 

 県道183号を歩く途中、突然道路の向こう側から白いシャツの男性と、二三人の学生さんに呼び止められた。

誘われるままに横断歩道を渡ると、公民館の玄関の前に何人かの人が詰めている。

「食事は済みました?」、「甘酒はどうですか?」、「コーヒーはいりませんか?」

見れば、幾つかテーブルを並べ、ここで遍路のためのお接待をしていると言う。

 

学生たちが、覚束ない手つきで先ほどお願いした甘酒と冷たいコーヒーを運んでくれる。

お遍路の話が聞きたいと言う学生達だが、恥ずかしいのか些か口が重いようではある。

それでもぼそぼそと、一頻、遍路談義や地域の話題に花が咲く。

僅かばかりの会話が何とも初々しくて楽しい。

 

学生さんのお接待

学生さんのお接待

学生さんのお接待

 

学生さんのお接待

学生さんのお接待

学生さんのお接待

 

学生さんのお接待

学生さんのお接待

学生さんのお接待

 

 「アッ、お遍路さン」

一人の学生が突然叫び、目の前の停留所に停まったバスの中にお遍路の姿を認めた。

残念ながら乗客の遍路はこちらに気付くはずもなく、バスは無情にも出て行ってしまった。

「今日はまだこれで4人・・・」と言うスタッフに、「逆打ちに出会えば勧めてみますよ」と返す。

 

 聞けば近くの学校の生徒さんが、作業実習の一環で開いているという。

地域の皆さんと触れ合いながら、お接待を体験するために、毎月1日2日、この和気公民館で活動しているのだ。

「愛媛県立みなら特別支援学校松山城北分校」の四人の学生さん、若い教官のMさん、それに地域ボランティアの皆さん達の親身で暖かなお接待に気を良くし、長居をし、すっかり寛がせて頂いた。

(この項記事は、「愛媛県立みなら特別支援学校松山城北分校」の了承を得て掲載しています

 

 

町中の札所・円明寺

 

再び県道を次の札所に向けて歩き出す。札所までは2.6キロと近く、市街地を歩くことに成る。

暫く歩くと県道はこの先で狭まり、その先に大きな立木が見えてきた。

 

町中に建つ第53番札所・円明寺は、うっかりしていると見過ごし、通り過ぎてしまいそうなほど間口が狭い。

県の重文に指定されている八脚の仁王門を潜ると右に観音堂、左に大師堂が控えている。

境内の中央を石畳が貫き、その中間に二階建ての中門、その先正面に本堂がある。

 

本堂の内陣には名工・左甚五郎の竜の彫り物が残されている。

また境内には、キリシタン禁制の名残である十字の形をしたマリア像を浮き彫りにした石塔が有ったようだが、残念ながら気付かぬまま見落としてしまった。

 

円明寺

円明寺

円明寺

 

円明寺

円明寺

円明寺

 

円明寺

円明寺

円明寺

 

円明寺

円明寺

円明寺

 

門前の交差点の所で「まんじゅう」の看板を見付け立ち寄ってみる。

大正2年創業を誇る和菓子の老舗「萬国堂」と言う夫婦二人で切り盛りする店である。

創業当時から製法が変わらないと言う名物の「うすかわまんじゅう」は、しっとりとした生地に包まれた甘さを抑えたあんこがうまくて、疲れた身体を甦らせてくれる。

昔の歩き遍路も門前の茶店で腰を下ろし、熱い茶を啜りながらその土地の名物で疲れた身体を癒したのであろうか。

 

円明寺

円明寺

円明寺

 

 

花へんろの町

 

 境内を出て左に進路を取り、和気の町を抜ける。

次の札所までは38キロ余り、松山市からさらに、北条市を経て今治市に向けて歩くことに成る。

県道347号で堀江の町に入ると、JRの駅を過ぎた辺りで線路と国道196号が近づいてくる。

山塊が海岸に迫る狭隘の地で、左手に瀬戸内海・斎灘の海が見えてくる。

 

花へんろの町

花へんろの町

花へんろの町

 

花へんろの町

花へんろの町

花へんろの町

 

ここからは、瀬戸内の海に沿って、ほほJR予讃線と並行する道を歩き、光洋台、粟井の駅を過ぎる。

ガイドブックには、この辺りの粟井坂に高浜虚子の句碑が有ると書かれていた。

しかし坂を実感する事も無いまま、その句碑にも気付かず通り過ぎてしまった。

 

途中逆打ちの遍路に出会う。

うるう年は、逆打ちに出る遍路が多くなるらしいが、その謂れを良くは知らない。

 

花へんろの町

花へんろの町

花へんろの町

 

花へんろの町

花へんろの町

花へんろの町

 

 柳原を過ぎ、河野川を越えた辺りに、白いガードレールに隠れるように俳人・高浜虚子の句碑と胸像が建っていた。

ここ西ノ下地区は、虚子が幼少時代を過ごした町らしい。その大師堂の石柱には、こんな句が刻まれている。

 

「この松の下にたたずめば露のわれ」 「道の辺に阿波の遍路の墓あわれ」

 

海すれすれの道は、やがて北条の町に入り、北条駅を右に見て、辻町商店街を進む。

さすがに北条の町は、町並みも、道行く人や車も増え賑やかだ。

穏やかな海に、芸予諸島の大小の島々が浮かんでいる。

一際大きな島影は、中島で有ろうか。

ここらあたり一帯が中世も前期の頃、瀬戸内海を制した海賊、河野水軍の本拠地らしい。

 

花へんろの町

花へんろの町

花へんろの町

 

花へんろの町

花へんろの町

花へんろの町

 

その先に、かぎ型に曲がる道路があり、曲がった先に「花へんろの町」と書かれた看板があった。

何となく懐かしい、聞き覚えのある言葉だと思ったら「早坂暁の故郷」と書かれている。

NHKのテレビでやっていたらしいが見た覚えはないが、題名には記憶があり、それを覚えていたようだ。

 

 風早町(現北条町)の、遍路道に面した百貨店「富屋勧商場」で生まれた育った作者の、自伝的な小説の舞台となったのがこの町らしく、今その場所には酒場が有るらしい。

 

 

「元祖鯛めし」の老舗宿

 

 今晩の宿「大田屋」は、そこから100mほど歩いた右手にある。

嘉永6年創業、「元祖鯛めし」が自慢のビジネス旅館で、1階はお食事処、2階が客室、3階が宴会場になっている。

 

夕方5時前に宿に入ると、この日の泊り客は三人と言う。

太山寺から前後しながら歩いて来た、あの女性の遍路が同宿らしいが、まだ到着していない。

 

恒例の洗濯をしながら一番風呂を頂いて、6時半過ぎに楽しみな夕食の席に着く。

献立はタイの頭を甘辛く煮つけたものと、それに酢の物や刺身などが並び、締めはタイの炊き込みご飯と潮汁だ。

この「名物鯛めし」は、この地方には古くから伝わる伝統食だと言う。

 

花へんろの町

花へんろの町

花へんろの町

 

花へんろの町

花へんろの町

花へんろの町

 

花へんろの町

花へんろの町

花へんろの町

 

 いつの間にか到着していた彼女は、夕食は頼んでいないと言い残し風呂に向かった。

暫くして風呂を上がった彼女を、「こんな美味しいものがある・・」と話の輪に誘い、女将さんにお願いしお握りにしてもらったタイ飯を勧めてみる。

 

折角だからと美味しそうにほおばる彼女と一緒に、他に泊り客の無いことを良いことに、遅くまで遍路話や人生論(?)に話のはなが咲いた。

聞けば、今日が区切り打ちの最終日だという。

「明日、今治から夜行バスに乗り、自宅のある千葉まで帰る」と彼女は言っていた。

 



 

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