空腹抱えて、瓦の町菊間へ
北条のビジネス旅館「大田屋」で泊まった翌朝、朝食も食べないで、6時に宿を出た。
朝日を浴び始めた海は、まだ灰色のまま波静かに重く沈んでいる。
その境目には薄いオレンジから白、さらに微かなブルーから濃い青色に変わる幾層もの色の変化が積み重なった大きな空が広がっていた。
宿を出る折、おかみさんから「鎌大師」の方に道を取れば、すぐにコンビニが有ると聞かされていた。
しかし、どこでどう間違えたのか、景色に見とれ海沿いの国道を来てしまったのでコンビニがどこにもない。
途中の町中に商店を見つけたが、こんな早朝から開いている筈もなく固く表戸を閉ざしている。
更にその先には、道の駅「早風の里・風和里」も有ったが同様閉まっていた。
道行く景色は申し分ないのに、空腹だけは如何ともしがたい。
途中ジョギング中の女性に尋ねると「コンビニは菊間までありませんよ」とつれない返事だ。
地図で確認すると、その菊間の町はまだ5キロ以上も先だ。
「おにぎりでも頼んでおけば良かった・・・」と、愚痴と後悔がため息交じりに口にでる。
遍路道は、山が海まで迫り、押し出されるように国道には海の上に新しい歩道が作られている。
所々切り抜かれた床にはグレーチングが嵌められているので、防波堤に打ち砕ける白い波が真下に見える。
歩き始めて1時間半ほど経過して、ようやく今治市に入って来た。
とは言え、国道沿いの道はお店どころか人家もない海辺の一本道が続いている。
「店の跡らしき建物に出くわすだけ、高知の室戸道よりまし」と、悪態をつきながら、ただひたすら歩くだけだ。
60mほどと短い砥鹿山トンネルを抜けると、小さな漁港もあり、菊間の町が近づいている。
菊間は瓦の生産で知られた町だ。
だいぶ以前車で訪れた折、JRの駅のすぐ裏にある「かわら館」でそのことを知った。
菊間の瓦には750年余りの伝統が有るらしい。
今でもその技を引き継いだ名工が、鬼瓦や屋根瓦、工芸瓦などを手作りしていると言う。
国道沿いにも瓦工場の看板が見え始め、何件もの瓦を細工する工場が軒を連ねている。
店先には見応えのある大きな鬼瓦や、棟を飾る鯱・鷹などの細工瓦、屋根瓦などが並べられていた。
そんな中に「お接待処」を見つけ、立ち寄ってみる。
近くの菊間中学の生徒さんが、総合学習の粘土細工で作った作品が並べられている。
持ち帰って良いと書かれているので、菊間瓦の粘土で細工された小さな根付を有り難く頂き、金剛杖に下げてみた。
そこから更に歩くと遍照院の森が見えてきた。その門前に見事な鬼瓦が飾ってある。
どうやら町の中心部に入り込んだようだ。
JRの駅も、その先の「かわら館」も、重厚感ある瓦葺き屋根の見事な建物で、流石に瓦の町である。
駅の近くで、やっと見覚えのあるコンビニの看板を見付けることが出来た。
時計を見ると既に8時半を大きく過ぎていた。どうやらこれで朝食にありつけそうだ。
宅間まんじゅう
国道196号は菊間からも瀬戸内海に沿って伊予亀岡を経て、大西を過ぎる辺りで予讃線とも別れ内陸に向かう。
宅間の町に入り「まんじゅう」の看板を見つけ、休憩を兼ねて立ち寄ってみる。
ここの名物は、薄皮生地の中にこしあんが入っている酒種まんじゅうだ。
丸いまんじゅうを押しつぶした、薄いせんべいのような形をしている。
「一つ一つ手作りしてるんや」と言いながら、奥からおばあちゃんが出来たてのぬくぬくを持ってきてくれた。
丁度岡山名物の大手饅頭を押しつぶしたような、或いは福岡太宰府の梅が枝餅のような印象だ。
食べてみると、甘すぎないさっぱりとした口当たりで、後を引かないそんな感じの美味しさであった。
落ち着いた雰囲気の延命寺
この店の先で右にカーブする国道とは別れ、そのまま道なりに直進して県道38号に入る。
長丁場も札所までは、残すところ2キロほどと近くなる。
町中の右側に乃万小学校を横目で見て、そこを過ぎ県道を左折すると、稲田と住宅が混在する長閑な道となる。
道なりに進めば、それがそのまま第54番札所・延命寺の山門へと続いて行く。
その昔この寺は山号にもなっている近見山に、七堂伽藍の整う大寺であったらしい。
しかし度々の兵火によって焼失し、今の地に移ったと言う。
山門を潜ると大杉が聳え、参道脇の右手に鐘楼、左手に薬師堂やお土産などを売るお店が並んでいる。
正面の石段を登ると本堂が有る。
本堂前の左手に30段ほどの石段があり、そこを登ると本堂と同じ高さに大師堂が有る。
山裾を上手く利用して伽藍が並び、静かで落ち着きのある良い雰囲気のお寺である。
町の雑踏からも遠く静かで、境内では読経の声しか聞こえない。
山門を出て、その脇の坂道を登り、墓地に出る。
そこから振り返れば、低い山々に囲まれた門前の町並みの広がりが見事に見える。
ここから次の札所・南光坊までは4キロ余りの道程で、1時間も見ておけば充分だ。
田畑の広がる小さな丘を上り下りし、途中西瀬戸自動車道の高架を潜る。
道は僅かながら登り坂となり大谷霊園へと登って行く。
道なりに車道を歩いていると、後ろから来た軽トラックの男性に呼び止められ、「その道は遠くなる、その石段を登ると近い」と教えられ、少し戻ってその石段を登る。
教えられた通り駐車場を抜け、霊園を下る道に差し掛かると、前方に今治の町並みが見えてきた。
西瀬戸自動車道を潜り、大谷霊園で軽トラの男性から教えられた階段を上る。
霊園敷地の外周を廻ることなく、かなりショートカットし、近道が出来たようだ。
階段を上りきると駐車場で、そこを抜け霊園の下り道に差し掛かると、前方に今治の町並みが見えてきた。
両側は広い墓地公園になっていて、参拝の車が行き交う坂道を一気に下る。
下りきったところで、桜橋の手前を左折、浅川に沿って市街地へと入り込む。
今治北高校の先で予讃線の高架を超えると、すぐ右手は今治駅である。
周りは交通量の多い幹線が走り、商店や飲食店も多く、市街地の中心らしい雰囲気になってくる。
第55番札所・南光坊と言う標識に導かれ進むと、境内のど真ん中を貫くアスファルト道に出た。
驚いたことに、その道が境内を二分していて、その両側に広い境内が広がっていた。
立派な山門はその左手先に聳えているので、ここから境内に入ってしまうとそこを潜らないことに成る。
手前に大師堂が建ち、前が駐車場になっている。
道の右手にはどっしりと本堂が構えその左に納経所がある。
境内には筆塚や芭蕉の句碑などもある。
ここには88ケ所の中で唯一と言うものが“二つ”あった。
一つは、先の大戦で大師堂と金比羅堂を残し全てが焼失し長いこと本堂等主要な伽藍が無かったこと。
これは昭和56(1981)年になって、漸く多くの信者の寄付等で本堂が、その後薬師堂、山門等が再建されている。
もう一つは寺名を「南光坊」と言い、
“寺”の付かない札所であることだ。
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