伊予最後の札所へ
前神寺の広い境内を横切って、前の道に戻り、ミカン畑を見ながら暫く歩く。
伊予の国最後の札所へは50キロ近い道のりを残している。
その先に「湯之谷温泉入口」の看板が立っている。
斉明天皇の時代から続く1,400年の歴史を誇る温泉らしい。
江戸時代には西条藩御用達の湯治場として発展、大正時代には公衆浴場も開設されていると言う。
石鎚の山並みを遠望しながら西条の市街地を抜け、再び国道11号を歩く。
松山自動車道のICが近いこともあり、広い国道は交通量が多い。
そんな途中の道端で「源氏巻」の看板を掲げるお菓子屋さんを見つけ、立ち寄った。
山口県の観光地・津和野にも同名のお菓子があるので、「どう違うの?」と店主に聞いてみる。
「津和野は折りたたんだ生地にこし餡を包んでいるが、こちらは薄くスライスした羊羹をカステラ生地で渦巻状に巻いている」と言う。
白餡、抹茶、ユズの三種類があると言うので買い求めると、店主が「お接待だ、味見をしていけ・・」と、どら焼きを一つおまけに渡してくれた。
直ぐ近くの中萩の駅前に、美味しいお蕎麦屋さんがあるとお菓子屋さん店主に教わり立ち寄ってみる。
ジャズの流れる店内で、のど越しも香も良くことのほか美味しい手打ちの「田舎そば」を啜りこむ。
無人駅の前に建つ店は、まだ開店して間がないようだ。
ここは趣のある古民家風の佇まいで、隠れ家的なそんなお店であった。
少し暑くなってきて汗ばむほどの陽気の中、東川に架かる黒岩橋を渡る。
暫く歩くと、左右にまっすぐ伸びる余り広くない道路と交差する。
かつて別子銅山で産出される鉱石を、新居浜の港まで輸送する任を担った鉄道の廃線跡である。
別子銅山鉄道の廃線跡を過ぎ、喜光地本町の商店街を抜ける。
アーケードのあるタイル張りの狭い道路の両側に、色々なお店がぎっしりと立ち並び、何となく懐かしい昭和の雰囲気の香るような商店街である。
嘗て銅山の華やか成りし頃は、そのお膝元の企業城下町として栄えた歴史を秘めているのであろう。
更に30分程歩いて、国道11号に合流、暫く町境の小さな峠を目指して、この国道を行くことに成る。
その昔通りすがりのお大師様は、この付近で遊ぶ子供たちから栗を一粒貰った。
そのお礼に「今より、一年に三回の実を与えん」と言い去っていった。
するとこの地域の栗の木は、年に三回実を付けるようになったそうだ。
旧土居町の番外霊場・三度栗大師堂に伝わる「お大師の三度栗伝説」である。
昔はこの付近には栗の木がたくさん植えられていたらしい。
その先で国道11号線を越え、さらにJR予讃線の踏切を横切る。
そこから2qほど歩き再び線路を超えると、どこからともなく線香の良い香りがあたりに漂ってくる。
町中のこんもりとした木立の中に佇む番外霊場第十二番・延命寺だ。
小さな丸い石橋を渡ると境内が広がり、番外とは言え、参詣の人も多く賑わっている。
道を挟んだ向かいの駐車場脇に、大師お手植えの松として知られる「いざり松」が有る。
いや有ったらしい。
目通り5m、枝張東西30m、南北20m余りと言われる推定樹齢700〜800年の松の巨木であったが、昭和43年に松くい虫の被害で枯れてしまい、その巨大な根と幹の一部が、風雨除けの屋根の下に保存されている。
大師が巡錫の折、再びこの地を訪れるとこの松の下でいざりの男が苦しんでいた。
大師が紙に「南無阿弥陀仏」と名号を書き男に飲ませると、不思議な事に男の足は立ち、歩くことが出来た。
それからこの松は「いざり松」と呼ばれるようになり、信仰を集める番外霊場になったという縁起がこのお寺には残されている。
伊予三島の駅を過ぎ、次第に進路を南にとると、舗装された道が山に向かって緩く上りとなる。
途中松山道を潜り三島公園のところで左に折れ、銅山川発電所を見てすすむ。
この辺りでもかなり高度を稼いでいて、今来た道を振り返ると、眼下には町並みが広がり中々の眺めである。
丁度ここら辺りの標高が70mほどらしい。
三角寺山の中腹にある札所まではあと約4q、標高差280mの急な山登りが待っている。
木漏れ日の指す山道を歩いていくと左手が突然開け、一面に三島・川之江の町並みと、煙突の聳える臨海工業地帯が広がり、余りの眺望に暫し足を止め見入ってしまう程だ。
こんな地に「ひびき休憩場」が造られていて、畑仕事のおじさんが「休んでいきな」と声を掛けてくれた。
息を切らし、辿り着いた駐車場の先に、長い石段が延びている。
この石段は、大きな石を組み上げたもので、その一段一段は高く、しかも角度はきつい。
まるで聳え立つ壁のようなさまは、「これが伊予路最後の試練だよ・・・」と挑みかけているようだ。
手すりを頼りに、不揃いの古めかしい石段を登る。
折しも大型バスで訪れたお年寄りのグループが、「きつい、きつい」と言いながら、途中何度も休み、その度に大きくため息をつきつつ登っている。
石段の上に山門が建ち、それが鐘楼に成っていて、そこには梵鐘が吊るされている。
遍路が通り過ぎるたびに撞き紐を引くので、その度にゴオ〜ンと鐘の音が辺りに響いている。
第65番札所・三角寺は、三角寺山(海抜450m)の中腹にあるお寺である。
登りきると正面に庫裡、左に本堂を構えた境内の周りには、樹木が鬱蒼と茂り緑が多い。
中でも樹齢400年と言われる桜の古木が見事で、今まさに若葉を芽吹き、大きな木陰を作っていた。
庫裡の横に石柱で囲われた小さな三角の池が有る。
大師が88か所開創の砌、この地に三角の護摩壇を築き、21日間護摩の秘法を修された遺跡らしい。
大師が三角護摩を修されたのはこの寺だけで、そのために慈尊院との寺号を以後は三角寺と改めた。
本尊は子安観音で、子に恵まれない夫婦が杓子を密かに持ち出し、夫婦仲睦まじく食事をすれば子宝に恵まれると言う風習が伝えられている。
これで宇和島の観自在寺から始まった「菩提の道場」伊予26ケ寺を打ち終えたことに成る。
ここからは一気に山を下り、次の札所・雲辺寺を目指すが、ここで道を間違えてしまった。
本来なら寺の石段を下りてすぐに右にとれば、次の目標までは下り道の6q程のところ、逆方向に進んでしまった。
左方向の車で廻る自動車道を来てしまったので、結果2q程余分に歩く羽目になってしまった。
下り道だからと侮っていたが、8キロほどの道程は、意外にもアップダウンの多い道であった。
結局平山の集落の辺りで遍路道に合流し、谷に沿った道を下り、暫くして高知自動車道の下を潜ると、前方に集落と国道192号線が見えて来る。
そこをさらに下ると、境内が朱色に染められたように見える番外札所・常福寺、別名・椿堂が建っている。
余り広くは無い境内の右に本堂、前の道を隔てて、大師堂が相対して建っている。
境内にある大師像は「おさわり大師」と言われ、自分の悪いところと同じ場所を触れば、たちまちそれを癒してくれると言う像で、そのせいか、足や膝はテカテカに黒く光っていた。
境内に「弘法大師お杖の椿」の石標が建っている。
大師が突き立てた杖で流行り病を封じ込め、その杖から芽吹いたと言う椿が本堂横にある。
元々の木が大火で焼失し、その焼け株の根元から芽が出て大きくなったと言う二代目だそうだ。
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