伊予名物“鯛めし”
道後温泉前の商店街は、この日が一斉清掃の日らしい。
各店舗から何人かの人が出て、自店の前を湿らせたモップで丹念に拭き、デッキブラシでゴシゴシと擦り、踏みつけられたガムなどを削り取っている。
「通行のお客様にはご迷惑をかけるが、綺麗にしてお客様をお迎えしたいのだ」と言う。
そんな商店街の入り口にある観光案内所に立ち寄り、地元の名物が味わえるところを尋ねてみる。
「近場ならここ」と、すぐ前の食事処を教えてくれたので、伊予名物の“鯛めし”を味わってみることにした。
“鯛めし”には南予風と中予風があるらしい。
南予風は刺身にした鯛をお重のご飯の上に並べ、山芋とねぎやゴマを混ぜた特製の出汁をかけて食べるものだ。
一方中予風は鯛一匹を丸ごと釜飯として炊き込み、炊き上がったらタイの身をほぐし五目飯に混ぜ込んで食べる。
どちらも捨て難く、両方・・と欲が出たが、散々悩んだ挙句、中予風を注文した。
「炊き上がるまで暫く時間がかかります・・」と言われ、待つこと10分、ようやく目の前に鍋が運ばれてきた。
「さあー」と思ったら、「まだです、炊き上がるまでもう10分ほどお待ちください」と言う。
鍋の下では、まだ青白い炎を上げて固形燃料が燃えている。「10分後に吸い物をお持ちします」との事だ。
鍋蓋の隙間から薄い湯気が上がり始め、いい匂いが漂ってきた頃合い、吸い物が運ばれてきた。
「もう良いですよ」と言われ、蓋を取ると湯気が一気に立ち上がり、鯛の蒸せた潮の香りが辺りに漂う。
鍋から慎重に鯛を取り出し、丁重に身をほぐし、炊き上がった五目飯に混ぜ込んでいく。
出来上がりをお茶碗に移し、一気に掻き込むと、薄い醤油飯に甘い鯛の身がからみとてもおいしい。
醤油のしみたおこげも絶妙で、何とも言いようのない美味しさに大満足だ。
此れなら20分待たされても辛抱が出来る。
松山の繁華街・大街道の電停から少し歩いた先に、秋山兄弟の生誕地が残されている。
司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」で知られた秋山兄弟は、日清・日露戦争において軍人として活躍した人物である。
坊ちゃんも入った道後の湯
多くの観光客で賑わう湯の町・道後にあって、「道後温泉本館」はシンボル的存在だ。
明治27年に建てられたという木造の三層構造の建物は、当時としては大変珍しい建物であった。
完成当時から人気の的で、平成に入り、国の重要文化財に指定された貴重なものである。
入浴はいろいろなコースが用意されている。
湯につかるだけから、大広間や個室での休憩付き、館内衣やお茶のサービス付きなどがあるので、目的と時間とを相談しながら、好みのコースのチケットを玄関先の窓口で購入する事になる。
男湯は二室あるが、何れも浴室は同じような作りで、僅かにぬめりのあるアルカリ性単純泉の湯も同じらしい。
浴槽はやや深め、丸い蒲鉾形をした縁、その下の腰掛の幅は狭く、湯に浸かってのんびりと言う体制は取り辛い。
自然光を取り入れた浴室と合わせ、これが昔の佇まいを残していて何とも風情がある。
入浴に時間制限があって多少慌ただしくはあるが、至福の湯であることは間違いない。
昔の歩き遍路もこの道後の湯だけは捨てがたかったようだ。
何日も逗留し、旅で汚れた垢を落とし、栄養を付け体力の回復に努めたらしい。
坊ちゃん列車
明治の文豪夏目漱石の小説「坊ちゃん」で、マッチ箱のようと形容された「坊っちゃん列車」が復活した。
「坊ちゃん列車」が復元、運行されるようになったのは、平成13(2001)年10月のことだ。
松山観光の目玉の一つとして、いま汽笛を響かせながら町中を走っている。
観光の起爆剤として、観光事業者、特に道後温泉の関係者等からの熱望を受けてのことであったようだ。
町中を走る蒸気機関車をどう再現するのかが、最大の課題であったようだ。
さすがにこの時代、石炭を焚き、黒い煙をもくもく吐くと言うわけにもいかない。
検討の結果、機関車の動力源はディーゼルエンジンと決まった。
煙・蒸気は、動力源で作られた無害の模擬煙を吐き、再現された汽笛を吹鳴しながら走ることになった。
それぞれの終着駅では、機関車の切り離し、回転、連結なども間近で見ることが出来る。
運行は常に機関車を先頭にして、客車を牽引する必要がある。
その為終着駅では、機関車を切り離した後方向転換機を使って向きを変え、その後連結する作業が行われる。
そんな作業が目の前で見られるとあって、これも観光客には受けていると言う。
明治21年製の1号機と、明治41年製の14号機、及び同年代に造られた客車の復元車輌が走っている。
乗り込む機関士と車掌は、伊予鉄創業時の制服を再現し、着用している。
この懐かしい車両が観光客の人気を得ていて、時には満員で乗れ無いこともあるらしい。
運行は主に土日祝日で、道後温泉駅から、松山市駅或は古町駅間の二系統で運行されている。
町のシンボル・松山城
松山のシンボルは、市街中心部に聳える132mの勝山(城山)に建つ松山城だ。
別名を金亀城とも勝山城とも呼ぶ、四国最大の連立式天守を構えた平山城だ。
お城へは登山路もあるが、ロープウエーなら3分、リフトなら5分で登城道である東雲口に到着する。
天守までは、そこから長者ケ平と呼ばれる場所などを10分ほど歩くことになる。
松山城には国内で12カ所しか残されていない、現存12天守の内の一つが残されている。
お城の敷地は広大で、裾野には二の丸や三の丸も残されている。
江戸時代に建造された城は、「日本100名城」や「美しい日本の歴史的風土100選」の一つに選ばれている。
またミシュラン日本編では、二つ星の評価を得た。
天守・小天守・櫓を四方に配し、渡り櫓で結んだ連立式天守である。
建物が取り囲む中央に中庭が出来るのが特徴で、これは天守防衛の究極の姿と言われている。
この天守群は、現存12天守の中では姫路城と同じ構造で、桃山文化の様式を今に伝えると言われている。
天守三重三階地下一階の構造で、江戸時代最後の完全な城郭建築として知られている。
天守の最上階は30mほどの高さが有り、勝山を含めれば標高160m余りの高所となる。
そこからは、360度の眺望が開け、眼下には石垣の上に構える櫓群を一望にでる。
その先には松山の城下町が箱庭のように広がって見えている。
遠くには、天気さえ良ければ瀬戸内の島々や、四国最高峰の石鎚山、佐多岬半島まで見ることが出来ると言う。
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