門前の地蔵餅
道隆寺から次の札所までは7q余り、丸亀市内を抜ける2時間ほどの道程である。
ほぼJR予讃線に沿って金倉川にかかる幸橋を渡り、左手に讃岐塩屋駅を見ながら丸亀の中心部に入る。
更に丸亀駅を過ぎると、右手に丸亀城を仰ぎながら県道21号線をひたすら東に向かって歩く。
賑やかな通りを少し外れ、アーケードのある商店街の入り口付近にあるお寿司屋さんに入る。
捜せば他にも飲食店はありそうだが、余り奥まで入り込みたくはないので、ここで昼食をとる。
歩き続けているので、身体はガッツリボリューム系を求めているようだが、目はサッパリ系にしか向かず、ここでは「そばとチラシ寿司のランチタイムセット」を注文して腹ごしらえ。
その折相席に成った地元の男性が話しかけてきて、「門前に美味しいモチ屋さんがある」と教えてくれた。
道なりに進み土器川の逢来橋を渡り、それに続く県道33号線を歩く。
宇多津の駅を過ぎた辺りで県道を外れ、宇夫階(うぶしな)神社の辻を左折し旧道に入って来た。
「広い通りに沿って有ったはず」と教えられた店を探しながら来たが、ここまで店が一向に見つからない。
門前に続く旧道で、たまたま教育委員会が主催する「スタンプラリー」の一行と遭遇した。
その中の若いお母さんに聞くと、「お餅屋さんならすぐそこにありますよ」と言う。
ラリー参加者の人混みの先を見ると、「地蔵もち」の看板を掲げ、硝子戸を立てた老舗らしい店先が見えていた。
「高橋地蔵餅本舗」は、創業が明治40年頃と言う老舗である。
郷照寺の門前に有り、店の目の前に地蔵堂が有る事から名付けられたと言う。
この店では朝早くからガラスケースに、草餅を始め、おはぎや赤飯、塩もちなどが並べられる。
しかし今は既にそのほとんどが売り切れて、塩もちだけが並んでいた。
店先でお茶のお接待を受けながら頂いてみると、腰の強い餅にさっぱり甘い、塩味の効いた餡が絡みつく。
地元産のもち米に拘って、水や砂糖、塩の調合は天気によって心を砕いていると言う。
これを楽しみにして訪れる遍路を、がっかりさせないようにと、毎日作る数を調整するのが大変らしい。
そうして作り上げたお餅は、昔からここを訪れる遍路の疲れを癒してきたようだ。
厄除けの寺・郷照寺
地蔵餅を出て、その先の角を曲がると急な参道が待ち構えている。
第79番札所・郷照寺は宇多津町の青ノ山の麓にあり、厄除けの「宇多津大師」として親しまれている。
札所は真言宗のお寺が多い中、ここは珍しく時宗のお寺である。
その昔一時衰退したお寺を、時宗の一遍上人が再興したという歴史を持つからだそうだ。
石垣と植え込み、築地塀が豪邸の洗練された玄関先かと思わせるような、モダンな雰囲気の山門を潜る。
その先の石段を登ると本堂や庚申堂が有り、更に石段を登ると厄除け大師堂が有る。
境内左手に鐘楼が有り、その鐘には不思議な伝説が語り継がれている。
この歴史的な価値の有る鐘は、先の大戦の折りにも金属徴用から免れ残されたものだそうだ。
ここから見渡すと、宇多津の町並の向こうに、瀬戸内海の碧い海が広がる眺望が素晴らしい。
JR予讃線の番の州高架橋と、その先に優美な姿を見せる南備讃瀬戸大橋の吊り橋が見える。
宇多津は昔から港町として栄え、四国の玄関口として賑わったところである。
今日では、本州と四国を結ぶ、瀬戸大橋線の四国上陸地点の役割を担っている。
久米通賢街道
次の札所までは凡そ6q、1時間半ほど、JR予讃線とほぼ併走する県道33号線をひたすら歩く行程だ。
人口5万人余りを擁する坂出市は、この辺りではさすがに賑やかな町並みを見せている。
そんな町中を歩いていると「久米通賢街道」と書かれた道路標識が目に留まった。
通りの名は、「くめつうけん街道」であるが、調べてみるとこれは人の名で、「くめみちかた」と言う。
現在の香川県かがわ市で生まれた江戸時代の発明家、暦学者、洋学者とあった。
江戸時代末期、私財を投げ打って坂出における塩田事業を完成させ、地元の偉人と讃えられる人物のようだ。
あの伊能忠敬よりも早く領内の精密な地図を作り上げ、忠敬が全国測量でこの地を訪れた折には、案内・接待係として測量に付き添い、手伝ったと言われている。
この通りは、その郷土の偉人「久米通賢」を讃える通りである。
ニューセンチュリー坂出
この日は坂出市内の「ホテル ニューセンチュリー坂出」に宿を取った。
坂出駅前辺りで、遍路道を外れ左折、暫く直進し、その先で右折し大橋記念通りにでる。
その通りに面し、海辺に近い閑静な緑地公園に沿って建つビジネスホテルだ。
目の前は番の州工業地帯で、工場群の向こうに瀬戸大橋が見通せる。
一泊朝食サービス付き4,680円の格安ホテルは、窓から眺める夜景が素晴らしいところでもある。
宿を出て坂出の駅方向に向かえば中心街に近く、夕食場所も何カ所かあるので不便を感じる事は無い。
この夜は、歩き疲れた肉体を、焼き肉で補うこととした。
八十場の水とトコロテン
坂出の市街地を歩き、市役所を左に見て1qほど進んだ先で県道33号線から離れる。
JRの線路を渡り少し山際に入った道を緩く上りながら歩く。
すると町の外れに小さな池があり、それを覆い隠すような鬱蒼とした緑が茂る小さな森が見えてきた。
「八十場の霊泉」である。
説明板によると、景行天皇の御世、悪魚の毒に悩む讃留霊皇子とその88人の軍兵を甦らせた薬水だという。
また800年の昔、保元の乱により当地に配流された崇徳上皇が、深い怒りと嘆き恨みを残して崩ぜられた折り、その処置を京都に仰ぎ、検視の返事が戻るまでの21日間をこの泉に浸し、腐損を防いだという言い伝えのある泉だ。
鬱蒼として森厳な気が感じられる森、今その泉の前には茶店が有る。
凡そ200余年前からこの地で、伝統を受け継いだ「ところてん」だけを作り続けている老舗の店だ。
尾張風の三杯酢、関西風の黒蜜、土佐風の出汁など食べ方は色々あるが、ここではからし風味の酢醤油で食べるのが、八十場風だそうが、疲れた体は甘い黒蜜のかかった関西風を求めていた。
名物「ところてん」は今も昔も変わらずこの地で、愛されている。
崇徳天皇供養の寺・天皇寺
八十場の霊泉から200mほど緩い坂を登ると、いつの間にか白峰神社の境内に入り込む。
巨木が鬱蒼と茂る境内は広く、ゆったりと社殿などが配置されている。
うっかりしていると札所と間違えそうであるが、札所はそのすぐ隣の隣接地にある。
元々は一体で神社の方が札所であったものが、明治の神仏分離令でご本尊が末寺に移され、今の形になった。
第79番札所・高照院の正面には、「四国第79番霊場天皇寺」と書かれた立派な石碑と、「崇徳上皇白峰宮」と書かれた看板、「崇徳天皇」と書かれた扁額の上がる赤い鳥居が建っている。
配流され、強い恨みを残しながら当地で崩御した崇徳上皇は、その後怨霊が人々を畏れさせた。
そのため長いこと居住されていたこの地に白峰宮を建立し、寺号を天皇寺と改め鎮魂に努めたと言われている。
この鳥居がまた珍しいもので、正面の大きな鳥居の両脇に小さな鳥居が、“ハ”の字のように開いて構えている。
さらに笠木の上には瓦も葺かれていて、余り見かけることのない鳥居である。
正式には「三輪鳥居」と言うらしく、同じものは奈良県の大神神社にあるそうだ。
境内から納経所に至る途中に、何やら不思議な形をした門が有る。
薄桃色に塗られた門に、角を付け傾斜のきつい屋根(?)を持ち、その上に鳥らしきものが飾られている。
壁に描かれている模様は、中華風のようで、何とも日本のお寺にはそぐわない不思議な門である。
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