静御前所縁の寺・長尾寺
第87番札所・長尾寺は聖徳太子の開創と伝えられる古刹である。
町中の通りを折れたすぐのところに仁王門が建ち、その前に背丈ほどの石塔が二基建っている。
傍らに立つ説明書きによると、これは経憧(きょうどう)と言い、鎌倉中期頃に経文を埋納する施設として、或は供養の標識として建てられたものらしい。
凝灰岩製で、奉納された時期は異なるが、何れも弘安の銘があると言うのもので、もしかしたら元寇の役で戦死した兵士の供養として建てられたものなのか、そんな想像が膨らんでくる。
ずいぶんと広く開放感のある境内である。
鐘の吊るされた仁王門を潜ると、石畳を敷いた道が真っ直ぐ本堂に向かい伸びている。
その正面に本堂が建ち、それを挟み込むように、右に大師堂、左に護摩堂や常行堂が直線状に並んでいる。
本堂の前は広々とした公園の広場のような空き地で、そこには何本かの松や楠が植えられているだけである。
どうやらこの広場は、毎年正月に行われる行事「大会陽力餅」(餅まきと大鏡餅の運搬競争)のためのもので、普段は訪れる人々の駐車場となっているようだ。
そんな一角に地蔵尊像が有り、その片隅に静御前の剃髪塚がひっそりと佇んでいる。
吉野で源義経と別れた静は京へ戻ったが、捕えられ鎌倉に送られた。
その後鎌倉を逃れた静は、義経が奥州衣川で討ち死にした後、母磯禅尼の生まれ故郷に近いこの地に身を寄せ、この寺の住職の得度を受け剃髪したと伝えられている。
その髪を埋めたのがこの塚で、寺にはゆかりの品が残され、本堂には位牌も祀られていると言う。
静はこの地で亡くなったとされ、寺の近くには住んでいた庵や墓まであると伝えられている。
結願への道
87番から88番に至るルートは、長尾の町から途中川原の庵・宝政寺などを経て前山までは約5qだ。
ゆるく上るほぼ一本道で、ほかに選択の余地も無く迷う心配はない。
前山にはダムが有り周辺は公園になっているが、ここから結願寺までのルートは幾つもある。
一番距離の短いのが前山ダムの堰堤を通り来栖渓谷を経由するルートだ。
次がダム湖の縁から多和神社を経由するルートだ。
この二つは途中太郎兵衛館跡で合流し、その先で女体山を越えて行き、何れも7キロ弱だが、健脚向きだ。
途中に聳える女体山は774mほどの山で、山としてはさほど高くはないが、岩をよじ登る難所が何か所かあり、雨降り等天候の悪い時には歩き辛く厳しい山らしい。
距離が一番長くなるが、無難なのが県道3号から国道377号を辿るルートで、その距離は11.5qほどとなる。
次がほぼこのルートに沿っていく旧道である。
距離的には変わりないが、途中「花折」と「額」と言う二つの峠を越えて行く道で、これこそが本来の遍路道だ。
結願に向かうルートについて、一部では悪戯に厳しい山越えを歩かせる女体山のルートを否定する声も有るようだ。
危険すぎると言う事で、実際、悪路故に年に何件かの滑落事故も起きているらしい。
その一方ではここまで頑張ってきたのだから、最後にもうひと踏ん張りと、あえて厳しいルートを選択する人もいる。
この日長尾の町からひたすら県道3号線を緩く上りながら歩き続けてきた。
1時間ほど歩いたところで山が迫った前方の狭間に、巨大なコンクリート製のダムが見えてきた。
お遍路交流サロン
鴨部川を堰き止めた前山ダムで、そのダム湖を回った先に「前山おへんろ交流サロン」がある。
ここはNPO法人「遍路とおもてなしナットワーク」が運営する、文字通り遍路とそのおもてなし文化に貢献している人々の集うサロンであるが、誰もが立ち寄れる場所であることに変わりはない。
ここではお茶やお菓子の接待も有り、歩き遍路や自転車遍路には、自己申告すれば「遍路大使任命書」、或は「自転車遍路大使任命書」を授与してくれる。
サロンは88番の手前にあるので、正確には結願を見込める人との事だが、任命書と合わせて記念ピンバッヂも頂ける。
結願寺へのルートの一つ、女体山を目指す場合はここの手前のダム堰堤道を辿る。
旧遍路道を歩く遍路は、サロンの手前で右に折れて行く、また前を通っても立ち寄らない遍路もいる。
このように、すべての歩き遍路・自転車遍路がここで「大使任命書」の授与を受けるわけでは無い。
従って正確に把握された数では無いが、ここに立ち寄る歩き或は自転車の遍路は、毎年3,000前後を数える。
また、その男女の比率は凡そ3対1だそうだ。
カウントダウン
「修行しているわけでは無いから・・・」と言い訳し、無難な選択で山越えを避け県道3号を歩いて来た。
しかしこの道は、所々で歩道のない部分もあり、行きかう車に肝を冷やされることが度々ある。
何処かで大型の土木工事でも行われているのか、ダンプカーなど大型車両の行き来が多く、他の交通量が少ないせいかどれも結構なスピードで通り過ぎて行くので危なくって仕方がない。
途中であった地元の御婦人も「危なくって仕方ない」と同じようにこぼしていた。
「前山おへんろ交流サロン」とその前の道の駅ですっかり寛ぎ、8時半過ぎ最後の歩きを始めた。
ダム湖が出来、水没を免れるため移設された女体山・女体宮の一の鳥居を見て、1時間ほど歩く。
途中で額峠を越えるあたりに、大窪寺までは六十五丁(約7Km)の標識が立っている。
時間に余裕も有るので、途中立ち寄りを楽しみにしていた助光で脇道に少しそれたところにある「細川家住宅」ではあるが、生憎工事中で見学が出来ないと立て看板が告げていた。
昭和41年にこの地区の民族調査で発見され、この地方の特色を持つ民家として認められた江戸時代中期の建物らしく、国の重要文化財に指定されている。
多和の集落では、少子化の為閉校になった多和小学校跡で、地元の活性策として産直市が開かれている。
その教室跡ではどぶろくを仕込み、販売も行っているらしい。
生憎と今日は平日で、開かれてはいず、嘗ての校庭も校舎も閑散としていた。
県道3号線から国道377号に入る辺りの竹屋敷口に三十丁石が有った。
凡そ250年前に建てられたものらしく、いよいよ残りも3.3Kmと結願が近づいてきた。
そこから1時間余り歩くと、前方に大窪トンネルが見えてきた。
その手前を左に入れば、大きな駐車場が左手にあり、そこを過ぎれば結願の寺はすぐそこである。
ここまで一歩、一歩、又一歩と歩を進めてきた。
しかしここまでようやく辿り着いたと言うのに、不思議と特別な感動が湧いてこない。
何回かに分けた区切り打ちのせいなのか、「あぁ、着いた・・・」そんな安堵があるだけ。
何か冷めたような気持で前方に聳え立つ巨大な山門を眺めている。
結願所・大窪寺
長尾寺から15qあまり、ようやくにして第88番札所結願の寺に到着した。
両側に「四国霊場 結願所」「医王山 大窪寺」の石柱の立つ参道を進み、まだ新しそうな、巨大な山門を潜る。
聞けばこの山門、平成2年に完成した鉄筋コンクリート造りだそうだ。
大窪寺は、巨岩の目立つ矢筈山(782m)を背にして、その東側に広大な寺域を構えている。
緑豊かな境内に堂々たる堂宇を連ねていて、さすがに結願所だけあって、観光客なども多く参拝者で賑わっていた。
後で知ったことだが元々の山門は、ここではなく門前に並ぶ茶店を見ながら、その角を曲がって南側から入る、石段を登った先にある梵鐘の下がった二天門だそうだ。
ここは苔むした石垣の間の石段で、周りを杉や楓の巨木が覆っていて、その風情は古寺そのものである。
石段をさらに登れば正面が本堂で、右に大師堂、左に阿弥陀堂や納経所を従えている。
「高野山に持っていかはったらどうですか。その後、お床にでも飾らはったら宜しいのでは・・・」
納経所の女性に金剛杖の奉納を問うと、京言葉にも似た、はんなりとした言葉使いでやんわりと断られてしまった。
かつては、回り終えた遍路が奉納した金剛杖や菅笠、松葉杖やコルセット・ギブス、女性の髪の毛などが奉納されていたらしいが、今では境内の「寶杖堂」におさめるのは金剛杖のみに限定しているのだそうだ。
お参りを済ませ、納経帳の最後の一ページに朱印を頂くと、さすがに回り終えたのだと言う実感がわいてくる。
たっぷりと墨汁を吸った納経帳が、心なし厚く重くなった気がする。
ここでは有料(2,000円)ではあるが、頼めば「結願の証」を発行してくれる。
| ホーム | 遍路歩き旅 | このページの先頭 |
(c)2010
Sudare-M, All Rights Reserved.
|