鳥羽街道・葬送の道
「鳥羽街道」は平安京の造営に伴い、羅城門から真っ直ぐ南に途中鳥羽を抜け淀の納所へと至る道だ。
古くは「鳥羽作り道」と呼ばれていて、大坂・難波からの外国人使節団の入洛路であり、魚や野菜などの物資の輸送路であり、天皇の鳥羽離宮への行幸路で有ったと考えられている。
伏見街道や竹田街道とともに、京・大阪を往来する主要な街道であり、「京・大阪街道」と総称されていた。
平安京の中心を貫く朱雀大路から羅城門を潜ると、その前を西国街道が通っていた。
その東寺口の分岐点から南に向け、下鳥羽を経て鴨川の堤防を伝い、淀の納所まで延びている。
空海雨乞い伝説の残る矢取地蔵寺と言う小さな堂宇の前で国道171号線を渡ると、その街道の入り口だ。
ここは現在の千本通りに重なっている。
この通りは、現在でも京都の町を南北に貫く主要な通りの一つで、北は鷹が峯から南は淀の納所まで伸びていて、その内の二条から南が平安京の朱雀大路に相当し、九条通りから南がかつての鳥羽街道と言うことに成る。
色々な説が有るらしいが、有力なのがその昔送葬の地であった船岡山西麓に向け、千本の卒塔婆を立て、送り人を供養したのがその名の由来らしいから、この道は送葬の道でもあったと言う事だ。
十条通りの交差点の角に、古い常夜灯と石碑が立っていた。
見れば石碑には、正徳六(1716)年の銘が入り、梅鉢の紋様が掘られている。
ここから800mほど西にある、菅原道真公ご誕生の旧地として知られる「吉祥院天満宮」の常夜灯と道標らしい。
菅公と言えば学問の神様として知られているが、脇に立つ看板には、「雷除祭 ゴルフ・登山 安全桑の葉のお守」と書かれていて、どうやらここは雷除けにもご利益があるようだ。
現在の通りは古を感じさせない明るい通りで、道幅は余り広くはないが歩道も整備されているので歩きやすい。
街道筋のところどころには、一階に千本格子・犬矢来を構え、二階に虫籠窓などの有る旧家が佇み、旧街道の雰囲気を少しだけ醸し出している。そんな旧家は、石の階段を数段上がったところに築かれている。
これはこの地が、すぐ西を流れる西高瀬川と、東を流れる鴨川に挟まれた低湿地にあり、洪水を避けての措置だ。
儚い悲恋・恋塚淨禅寺
ここまで鳥羽街道(千本通)は、ほぼ南を向いて伸びていて40分ほどかけて歩いて来た。
上鳥羽八王神町で、クランクに左に曲がりすぐに右に折れる変則的な交差点の角に「恋塚淨禅寺」が建っている。
800年以上の歴史がる寺で、六地蔵巡りの第二番札所でも有る。
満開のツツジが美しい寺の入り口脇に案内板が建てられていて、それによると開基は文覚上人とある。
文覚と言えば、平安時代末期の北面の武士・遠藤盛遠その人である。
『ぜひもありませぬ。十四日の夜の戌刻、良人の寝屋へ、さきに忍んでください。その宵、良人にふろをすすめ、
髪のよごれも洗わせて、酒などあげて寝ませておきます。・・・どう仰っしやっても、良人が生きているうちでは、
あなたのお心に従えもいたしません。
わたくしは、遠い部屋で、あなたが、ことをすませるのを、眼をつぶって待っておりましょう。』
(新・平家物語(一)ちげくさの巻 鬼影 吉川英治著 講談社・昭和42年)
やはり物語のこの一節が思い出される。
盛遠は同僚である渡辺渡(わたる)の妻・袈裟御前に横恋慕し、渡との縁切りを迫ったところ、追い詰められた袈裟がそれに応える下りである。
夫を殺せと盛遠に持ちかけ、その実己の操を守る為、自分が夫の身代わりとなり盛遠の手に掛り殺されてしまう。
それは執拗を極めた、一徹で脇見を知らぬ男の道ならぬ恋の挙句のことであった。
恋する人を手にかけ、愛おしい思い人の首を手にした盛遠の驚愕は如何ばかりであったのか・・・。
慙愧の余り痛涙に咽びながら逐電した盛遠の姿を、その後都で見た人はいなかったと言う。
盛遠は悔恨の念から出家し、文覚と名乗り各地で荒行を積み、その後伊豆の頼朝の蜂起を導く重要な役割を担うのであるが、この儚い悲恋がその後の歴史を大きく動かしたのである。
城南宮とおせきもち
千本通は名神高速道の高架下を潜り、その先で左折し鴨川に架かる小枝橋を渡る。
左前方向に、名神高速道の京都南ICが見えている。
時は幕末頃、慶応四年に薩摩を中心とする新政府軍と、幕府軍との間で繰り広げられた「鳥羽伏見の戦い」の火蓋が丁度この辺りで切られた。
当時ここには旧小枝橋が架かっていて、あたりは戦場となり、橋をめぐって両軍が激しく衝突した。
しかし、敗戦を重ねた幕府軍はこの橋を渡り入洛することが出来ず、大阪道への退却を余儀なくされたのである。
渡り終えすぐに右折し堤防道に出ると、道は大きく左にカーブしながら下って行く。
鴨川の堤防を下りた最初の交差点の角に、「城南離宮 右 よど やわた」と書かれた古い石柱と、その横に「鳥羽伏見戦跡」の真新しい石碑が、白いガードレールに隠れるように立っている。
両側に常夜灯の立つ城南宮道を真っ直ぐに進むと、国道1号線に突当りその向こう側に「城南宮」が有る。
「城南宮」は、鳥羽作り道が開かれた折、都の南の鎮守として創建された古社だ。
街道は直進せず右に折れ、そのまま行けば、左手が「鳥羽離宮の跡」の鳥羽離宮跡公園である。
城南宮の前に「おせき餅」を売る店がある。
江戸時代、店に「せき女」と言う娘がいて、編み笠の裏に餅を並べ、道行く旅人に食べさせていたのが大評判になり、「おせきもち」と言う名を残したという。
この店の名物「おせきもち」は、一口サイズの腰の強い白餅とよもぎ餅が有り、それに丹波大納言のあっさりとした甘さの小豆餡をたっぷりと惜しげも無く絡めた和菓子である。
凡そ450年の歴史を誇る街道の名物には、鳥羽伏見の戦いではお店が焼けたとか、新選組の近藤勇も来店して食べたとか、歴史を感じさせるエピソードも数多く残されていると言う。
鳥羽離宮跡
街道は左手に「鳥羽離宮跡」に続いて「鳥羽殿跡」を見ながら南下する。
嘗ては東西1.5キロ南北1キロを要する広大な敷地に、殿舎や塔堂を構え池が巡っていたが今は唯の広場でしか無い。
右手は鴨川が流れている筈だが、ここから望むことは出来ない。
「鳥羽離宮」は平安時代白河上皇が造営した離宮で、淀川に繋がる池泉を配した庭園の岸辺に、数々の御殿を回らし、同時代に創建された城南宮を組み込んだ離宮は壮大な敷地を有している。
ここは歌会や曲水の宴など数々の宴、船遊びに競い馬など華麗な王朝文化の舞台となった。
また白河上皇に始まり、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇などと、135年に渡る院政が行われた場所でもある。
「鳥羽離宮跡」の公園をを後にして旧街道を暫く歩くと、全身に白粉を塗ったような、かわいい女の子風のお地蔵さんを祀る小さな祠が道路脇に建っていた。
どう言う謂れがあるお堂なのかは知らないが、なぜかほっとする場所である。
もう一つの恋塚寺
そこをさらに進むと、その先に茅葺の山門がチョコンと建つ小さなお寺が有る。
下鳥羽にある浄土宗の「恋塚寺」である。
門前に謂れの書かれた看板が建てられていたが、殆ど文字が消え、苦労してもなかなか読み取ることが出来ない。
寺は鳥羽伏見の戦いで焼失しその後再建されたもので、本堂は真新しいが歴史有る寺である。
先ほど見てきた「恋塚淨禅寺」と同様、出家した文覚(北面の武士・遠藤盛遠)が16歳でこの世を去った袈裟御前の菩提を弔うために、袈裟の眠る場所に草庵を建てたのが始まりとされる伝説の寺である。
本堂には、本尊の阿弥陀如来像の他、渡辺渡(源渡)と袈裟御前夫婦と文覚上人の木造が祀られているという。
下鳥羽北の口町の広い通りから東を望むと、緩く下った道路の先には、第二京阪道の高架道が南北に横切り、その向こう山を背にして微かに城が見えている。地図で調べると「伏見桃山城」であった。
城とは言えその前進は遊園地にあったシンボル的な建物で、秀吉・家康所縁の「伏見城」とは全く別物だ。
今では周囲は、伏見桃山城運動公園として整備されているらしいが、こうして遠くから眺めると、昭和に築城された城とは言え、堂々とその風景に溶け込んでいるように見える。
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