鳥羽の大石
旧鳥羽街道は、鴨川の左岸に固められた堤防の上に築かれたものだと言うが、歩いてみると成程と実感できる。
街道の西側には鴨川が迫っていて、その僅かの隙間に家並みが続いている。
この辺りの地勢は東側に行くほど下がり、街道沿いの家並みは道路よりも一段と低いところに建てられている。
更にここは緩やかな傾斜で下り、そんな底のようなところを南北に国道1号線が貫いている。
旧街道は下鳥羽の「恋塚寺」を過ぎた辺りで大きく曲がり、鴨川により近づいていく。
そこに「月の桂」醸造元増田徳兵衛商店の大きな建物が、黒瓦葺・白壁の良い雰囲気で街道に溶け込んで建っている。
1675年の創業と言う造り酒屋で、「にごり酒」を日本で最初に販売した蔵元として知られているらしい。
この先で千本通りは堤防に突き当たる。
鴨川と西高瀬川は丁度この辺りで合流していて、昔は三十石舟が出入りする鳥羽の港が有ったと伝えられている。
そんな河川敷に下りてみると、河原に綺麗に切り刻まれた大きな石が無造作に置かれているのが目に入る。
近くに建てられた説明板によると、二条城の石垣修理に使われる筈の大石である。
瀬戸内の石切場からはるばる船で運ばれ、この鳥羽の港で陸揚げされる折に、何らかのトラブルで川底に沈みそのまま今に残されたものらしい。
何百年もの間川底に有った物が、河川敷の公園化の折に市民の手により引き上げられようだ。
「はしり」の語源 草津の湊
旧鳥羽街道、現在の千本通りは鴨川の左岸堤防の下をそれに沿うように南に下っている。
ここらあたりでは、鴨川と西高瀬川が合流し、さらにその西側には桂川も流れていて、この少し下流で合流する。
堤防の上にはサイクリング・歩行者専用道路が整備されていて、ここは堤防下の旧街道よりも見晴らしがよく、川風も気持ち良く、歩きたくなるような道である。
堤防下の街道沿いには、本光寺、天然寺、法伝寺、一念寺など、小さなお寺だが意外と多い。
通りのお寺に混じって建つ、お城のような城壁の門を構えた民家の玄関先に、「鳥羽伏見の戦跡」の石碑がある。
右岸の堤防まで数百メートルも有るのだろうかと思えるほどに、遮るものも無い広々とした空間が広がっている。
振り返れば、京都タワーらしき姿も微かに望まれる。
京都のもう一つのランドマーク、東寺の五重塔はと探してみるが、さすがにビルに埋もれ見つけることが出来ない。
古の旅人もここら辺りで体を休め、川風に火照った体を冷ましながら振り返り、遠い緑の中に東寺・西寺の五重の塔を見つけ、自らの足取りを確かめたのではと、そんなことを偲ばせる場所である。
その先で街道は左にカーブし堤防からは離れて行く。
そのまま堤防上のサイクリングロードを直進すると、羽束師橋の下に「草津みなと 鱧海道 由来」と書かれた看板が建てられている。
それによるとここにはその昔、草津湊がり、魚市場も有ったらしく、近くには「魚市場遺跡」の石碑もある。
海から40キロも離れた内陸に、魚市場が開かれたことは、当時では大変に珍しいことで有ったらしい。
瀬戸内海や四国、和歌山などで水揚げされた魚を積んで、大型の曳き舟がこの川を行き来していた。
この草津の湊で陸揚げされた魚は、鮮度を落とさないために走って京の都に運ばれたという。
そのため時季に先駆け出回る野菜や魚を「はしり」と言うようになり、その語源とされている。
淀の納所
途中堤防道で、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の墓石を見ながら、古い町並みの「淀の納所」に入ってきた。
鳥羽街道の終点に当たる地で、淀城の城下町として開けた京の南の玄関口は、三十石舟が往来する川湊でもある。
ここは物資や人の往来する要衝の地で、軍事的にも重要な場所とされていた。
周辺は桂川、宇治川、木津川の三つの川が合流する標高が10mほどという低い三角州で、流れがいつも澱んでいたことから「淀」と呼ばれるようになったのが地名の由来とされている。また納所は「のうそ」と読む、中々に難しい地名であるが、その昔水揚げされ平安京へ運ぶ様々な物資を「納」める倉庫が立ち並んでいた「所」を意味すると言う。
鳥羽街道は終点近くの納所の町中で、なんだか曰くの有りそうな石の欄干の有る小さな橋を渡る。
継ぎ接ぎだらけの低い欄干には「五番ノ橋」と書かれていて、明治45年に納所川に架けられた橋らしい。
その先街道沿いの民家の前に、「納所村道路元標」と書かれた石柱が建っている。
町の中心五差路の交差点近くには、朝鮮通信使が上陸した船着き場の跡である「唐人雁木旧跡」の碑もある。
古くからの歴史を秘めた町らしく、史跡には事欠かないようだ。
淀城址公園
淀の納所は古くから軍事的な要衝で、室町時代には既に砦(城)が築かれていて、本能寺の変の後山崎の戦いでは、一時明智光秀側の砦としても使用されている。
その後秀吉の時代となると淀古城が設けられ、更に徳川家康・秀忠の時代には新しい城が造られた。
享保年間に稲葉氏が10代目の城主になると、以降幕末まで続く事になるが、宝暦年間の落雷による焼失で建物の大半を失うと、その後再建されることもなく、明治の廃城令で廃城となっている。
納所の交差点を背に、八幡の町に向け暫く歩くと、左手に淀城址公園が見えて来る。
緑濃い鬱蒼とした森の中に、本丸や天守台の石垣、内堀などの一部が残されてはいるが、館などの建物の類は何も残ってはいない。
この途中の道路脇には、「淀川瀬水車旧跡」が建てられている。
この付近には揚水用の大きな水車(直径8m余り)が二基有り、昔は淀川の水を淀城の泉水に引いていたらしい。
城跡には淀の産土神を祀る「與杼(よど)神社」も有る。
街道の結節点 八幡の町
その先で京阪電車の車両基地を左に見ながら、国道478号線(京治バイパス)のガードを潜ると、道は左にカーブしながら緩く宇治川の堤防へと登って行く。
これまで寄り添っていた桂川はこの辺りの先で木津川や宇治川と合流し川幅を増し、宇治川と呼ばれるようになり、更に下ると淀川と名を変えて大阪市内を流れ大阪湾に注ぎ込んでいる。
左から京阪電車の本線が近付き、の鉄橋と国道の石清水大橋、淀川御幸橋の三本が並ぶようにして宇治川を渡る。
橋の右手に「背割堤」と呼ばれる桜の名所が見えてくる。
1.4キロほどの堤に植えられた249本のソメイヨシノが咲くころは大勢の花見客で賑わうと言う。
道なりに進み、続いて木津川に架かる木津川御幸橋を渡る。
やがてその正面には、どっかと居座る八幡の男山の黒々とした山塊がより近づいてくる。
多くの物の本では、右手前方に見える男山に鎮座する「石清水八幡宮」を「東高野街道」の起点としているが、中にはこの橋を起点と記しているものもある。既に「鳥羽街道」は尽き、「東高野街道」に入ったということか。
橋を渡り終えると「東高野街道」と言う道標も現れるから、この辺りが街道の起点には違いなさそうだ。
八幡科手の交差点を超えると、道は堤防を緩やかに下り八幡の町に入っていく。
その先で京阪本線を踏切で超えると、右手には京阪電鉄の八幡市駅、その奥にケーブル駅が見えて来る。
真っ直ぐ進めば「石清水八幡宮」の深い森で、その前の道が高野山へと向かう「東高野街道」へと続いて行く。
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