誘われて

 

写真と文でつづる旅の思い出

 

 

 

 

 

 

 

結願成就の道(高野山・奥の院へ)

 

■ ■ 羅城門から鳥羽・高野街道 そして高野山へ ■ ■

 

結願成就の道

 

平成二十七(2015)年、高野山は開創1200年を迎えた。

遣唐使として派遣先より帰朝した空海は、弘仁七(816)年嵯峨天皇に高野山の開創を願い出た。

およそ一か月で許しの勅許がおり、下賜された標高900メートルともいわれる山上の盆地に、真言密教の根本道場を開くべく決意を固めるのである。

 

しかしその構想はあまりにも遠大で、難儀を極めた。

まず建築材料の調達、それを山上まで運び上げる手間暇、何れも膨大な時間と、何よりも莫大な費用が掛かったが、それらは思うように集まらず事業は難航した。そして着手して20年も得ず、志も半ばで空海は、むなしく高野山に入定することとなったのである。

 

その後伽藍の造営は、その後継者たちに引き継がれることとなったが、密教思想に基づく金堂、大塔、西塔、僧房などの建立は遅々として進まず、一応の伽藍が整い、西塔が完成したのは空海の着手からおよそ70年の歳月を要していたと言う。

 

その後これだけの長い歳月をかけ、幾多の危機を乗り越えた高野山は、真言密教の根本道場として、山上の宗教都市として神秘を秘めながら栄えてきた。

「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産の指定を受け、ミシュラン旅ガイド日本版で三ツ星の評価を得、そしていま1200年を迎えた高野山は優れた観光地として、国内の善男善女のみならず多くの外国人からも注目を集め、連日賑わいを見せているという。

 

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■ 鳥羽街道

 

→ 天皇より東寺を下賜された空海は 直ちに 都に於ける布教拠点として・・(教王護国寺)

 

→ 慙愧の余り 痛涙に咽びながら逐電し盛遠姿見たものは・・・(羅城門〜恋塚寺

 

→ 海から40qも離れた内陸に 魚市場が開かれ 鮮度を落とさない為(鳥羽の大石〜男山八幡

 

 

■ 東高野街道

 

→ あの発明王エジソンは 発熱電球の実用化に向けて・・石清水八幡宮・エジソン通り〜

 

→ 短い坂を上り 高架下を潜ると周りの景色一変し 福禄谷と言う・・(八幡〜洞ヶ峠〜

 

→ 五月の初頃になると 野崎参り〜は屋形船で〜参ろ・・♪♪」(寝屋川〜石切神社

 

→ 美味しいですよ」 と呼びかけるお姉さんのに 思わず・・(瓢箪山〜誉田八幡宮

 

→ 「町中 くわえきせる ひなわ火 無用」昔から町ぐるみで(古市〜富田林〜河内長野)

 

 

■ 高野街道

 

→ 軒から酒林が吊下がる酒蔵通りを抜け 西條橋を(河内長野〜旧三日市宿〜橋本

 

→ 日本有数の多雨地帯・大台ヶ原を水源とする紀ノ川を渡っ(橋本〜学文路

 

→ 聖地は8つの山々に囲まれていることから これらの峰々を・・お水の宿〜高野山へ)

 

 

■ 大門〜奥の院

 

→ 山々に結界が引かれ 女性は誰一人立ち入ることが出来ない(女人堂大門・一山境内地

 

→ いわゆる観光旅館やリゾートホテルなどは一切無く 宿泊は・・(宗教都市・高野山)

 

→ 建物自体が大日如来のお姿を現しているとされ 我々はその・・(壇上伽藍・金剛峯寺)

 

→ 古くから山は 先祖の魂が集合する「山中他界の信仰」が有り・・(奥の院・大師御廟)

 

→ 空海は善通寺で生まれ 唐に渡 帰国後は高野山を修行の地とし・・(空海に纏わる謎)

 

 

 

 

 

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結願成就の道

 

 

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