平成二十七(2015)年、高野山は開創1200年を迎えた。
遣唐使として派遣先より帰朝した空海は、弘仁七(816)年嵯峨天皇に高野山の開創を願い出た。
およそ一か月で許しの勅許がおり、下賜された標高900メートルともいわれる山上の盆地に、真言密教の根本道場を開くべく決意を固めるのである。
しかしその構想はあまりにも遠大で、難儀を極めた。
まず建築材料の調達、それを山上まで運び上げる手間暇、何れも膨大な時間と、何よりも莫大な費用が掛かったが、それらは思うように集まらず事業は難航した。そして着手して20年も得ず、志も半ばで空海は、むなしく高野山に入定することとなったのである。
その後伽藍の造営は、その後継者たちに引き継がれることとなったが、密教思想に基づく金堂、大塔、西塔、僧房などの建立は遅々として進まず、一応の伽藍が整い、西塔が完成したのは空海の着手からおよそ70年の歳月を要していたと言う。
その後これだけの長い歳月をかけ、幾多の危機を乗り越えた高野山は、真言密教の根本道場として、山上の宗教都市として神秘を秘めながら栄えてきた。
「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産の指定を受け、ミシュラン旅ガイド日本版で三ツ星の評価を得、そしていま1200年を迎えた高野山は優れた観光地として、国内の善男善女のみならず多くの外国人からも注目を集め、連日賑わいを見せているという。
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